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D's Talk session #01 with 森田純一 / jabara records

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世界歌謡祭:ヤマハ主宰の世界楽曲コンテスト/その第二回1971年大会はグランプリが上条恒彦(&六文銭)<出発の歌>/日本のエントリーは同曲とモップスの<雨>
菅:菅節和(かんせつかず)/73年ショーボート・レーベルより【ひとりぼっちの音楽会】を発表。当時新人だった荒井由美楽曲も収録され、バックメンバーは当時の東京ロ
瀬川さん:カルトなGSダイナマイツの元ヴォーカリスト瀬川 洋/当時はソロシンガー
「ぐ」:下北沢の自然食品レストラン/ロックバー
増渕:音楽評論家 増渕英紀 氏
戸塚さん:元シンコーミュージック編集者
照屋林助:沖縄音楽家
中孝介:あたりこうすけ/http://www.atarikousuke.jp/

 

D:森田さんさ、マネージャ時代は作詞はやってないの?

M:やってない。

D:あれ、<雨>。あれは大学時代でしょ? 菅さんとの曲。

M:あれは高校ん時。

D:高校? え〜、でも曲が…モップスで出たよね、あれは大学ん時でしょ。

M:71年?2年?

D:ヤマハの、世界歌謡祭*…だよねえ。なんでモップスがやることになったの?

M:あれは、高校の時に菅*の家へ遊び行って…。

D:菅さんも城北かあ。

M:そうそう、オレが学校へバーズのシングル持っていって、机の上に置いておいたら菅が見てさ、君もバーズ好きなの?とか言うのよ。なんだこいつ?とか思ったけど (笑)、はいはい好きだよって言って。したらウチに遊びに来ないとかいうから行ったのよ。医者の倅でデカい家でね。ぽろぽろとギター弾いてるわけよ、家で。そしたらなんか詞を書いてくんない?っていうからさ、ちょうど雨の日…その場で、五分か十分だな、書いて渡したのがあの曲。

D:それがなんでモップスまで行った?

M:菅は大学になってバンド作ってて、渋谷の青い森とかでライヴやっててね、誘われて何度か観た。で、バンドでヤマハの大会に出たんだね。そこで<雨>を歌ったらしい。そうしたら、それを聴いたモップスが…それうちらにやらせろって (笑)。

D: (笑)星勝さんだ。お前ら素人よりプロのオレがきっちり仕上げてやるとか言って (笑)…。

M:オレはそれも知らなくてさ。後から菅に聞いて、モップスが歌ったら予選通ったから本選だとか。

D: その本選?

M:武道館の。それも知らなくてなあ。それって国際大会で、日本代表が六文銭とモップス。

D:<出発(たびだち)の歌>だったよね。

M:そうそう、グランプリ獲ったんだよな。モップスは惜しかったとかで終わり (笑)。けどそれも後で知った。誰かに言われたんだわ、新聞にあんたの名前が出てるわよって。学校の女の子から。作詞:森田純一。

D:オレはけっこうはっきり覚えてるンだよね。当時ヤマハが出していた雑誌に『LM(ライトミュージック)』ってあったでしょ、それ毎号買ってたから。当然ヤマハ主催のイベントだから大々的に特集してて。そこには<出発の歌>も<雨>も、楽譜もあったよ。

M:あ、そうだったの? オレとしては「何で?」だったけどね (笑)。

D:その後で、菅さんはショーボートから…1枚だけだよねえ、アルバムを出したじゃない、【ひとりぼっちの音楽会】だっけ。バックがティンパンの。あれって森田さん、詞を書いてるの?

M:何曲か書いたヨ。

D:それは菅さんから「森田、また詞を書いてくれヨ」とかいわれて?

M:そうね。レコーディングも見にいったよ。

D:ティンパンのバックだよねえ。

M:そうそう。加藤和彦とかもいて。

D:加藤和彦って何? プロデューサー?

M:いやいや、ただ遊びに来てた感じ (笑)。たんに来てた (笑)。それで、ギターで菅の曲を弾き出して、この曲はこんなんでどう? とか、こういう感じでいこうよとか言い出した。

D:仕切らないとすまない性分なんだ、どこでも (笑)。

M:だね。加藤和彦ペースで進んだ (笑)。

 

D:あの〜、瀬川さん*のマネージャはいつ頃? やってたんでしょ?

M:いや…名前だけっていうか、ほとんどやってないな。

D:頼まれたんでしょ?

M:うん、でも一ヶ月で首になった (笑)。おめえじゃ使えねぇとか言われた (笑)。やったうちに入らない。

D:どこからの話だったの?

M:シモキタだな、ロフトや「ぐ」*…「ぐ」にはいろいろ来てたから。

D:なるほど、シモキタのロックサークルというか酔っ払いロッキン仲間うちね。葛城ユキも?

M:あれは違う、増渕*がらみ。

D:何したの?

M:アルバムを、増渕と一緒にプロデュースしたな。

D:そうだったんだ。

 

M:その後はずっとライターだよ。戸塚さん*のお世話になって (笑)。

D:戸塚さんの経費で飲み食い時代ね (笑)。

M:そうそう。

D:そのライター稼業もロックからどちらかといえば民族音楽とかって変わっていったじゃない。あれはどこらから?

M:その前にだんだん日本物っていうか和物がブームっぽくなってさ、シンコーも『Bパス』とか出して…。

D:プリンセスプリンセスとかも売れたモンね。プリプリってシンコーだったよねえ。

M:そうそう、なんかそこらが美味しくなったきた…。

D:森田さんさ、ハウンドドッグだっけ…提灯記事をずいぶん書いて儲けたでしょ (笑)。

M:そうそう (笑)。あと審査員とかさ、バンドコンテストの本選会をグアムでやるからどうすか? なんてね。美味しい仕事 (笑)。

D:バブルだったんだね

M:そうだね、ありゃバブル。それでさ、83年頃からかな、『中南米音楽』、後に『ラティーナ』って名前変えるんだけど、その雑誌の仕事がちょろちょろ入ってきて。

D:〝レゲエ〟あたりから?

M:そうだね、そのブームからかな。そこらからスラット(ファテ・アリ・ファーン)とかアジア系の音楽の取材やらが多くなって。地味だけどインドネシアとかベトナムからの来日もあって…ほとんどカンバセーションが仕切ってたやつかな。招聘元。それから沖縄もちょいちょいと…。

D:喜納昌吉とか…。

M:いや喜納はちょっと違ってその前だな。

D:そうかそうか、<ハイサイおじさん>は70年代だもんね。久保田麻琴や細野の〝チャンプルー〟とかは。

M:りんけんバンドは喜納のブームが冷めてからの、「ワールドミュージック」ってキーワードで出てきてからかな。WAVE がレーベル始めたでしょ。

D:レコ屋のWAVE?

M:そうそう、りんけんはそこから出たのよ。それで取材してて、りんけんから「森田さんならボクよりもうちの親父のほうが面白いと思うヨ」とか言われたんだよね。照屋林助*

それで沖縄通いが始まって…。そのうちにビクターから、沖縄音楽詳しいみたいだからセッティングしてとか言われてさ。それ受けたらなんだかプロデュースもよろしくてなことになってね。それが奄美(大島)まで続いたかな。けれど計画よりもビクターのCDリリースが少なくなってね。なんだよって感じで…。それなら自分で出しちまうか、と。

D:で、Jabara レーベルを立ち上げたと。金はなんとかなると思った?

M:まあね、なんとか。

D:今で何タイトル?

M:え〜と、46…だったかな。

D:あの中孝介*君、インディーとはいえデビューはジャバラじゃないスか。ジャケ、オレやったやつだよね。その後メジャーになったけど、あれはどんな感じだったの? どんなもないか…。

M:う〜ん、最近はきびしいけどね。一時期売れても続くのはきびしいよ。

D:そうだね、元ちとせも今ひとつだしね。

M:やっぱり3年ね、これを乗り越えれば10年以上いけるだろうけど。ここで忘れられちゃうんだな、大半は。

D:(ジャバラとは無関係だが…)斉藤和義はよく売れたよねえ。不思議だよね。

M:そうだね、不思議 (笑)。

D:最初のマネージャは戸塚さんでしょ、シンコーのアーティストだったから。当時戸塚さんは免許持ってなくて、斉藤和義が自分で運転して、迎えも戸塚さんとこまで行ってたんでしょ。それも都内ならまだしも、国領だっけ? ひどいマネージャだよねえ (笑)。

 

D:じゃあオレ次の予定あるからそろそろ…。

M:なんだよ、この終わりは (笑)

 

 

【120515 鶴瀬/森田邸