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T:実は奥山さんのことは黒沢さんから、かなり前からお名前はうかがっていたんですよ。
D:え、そうなの? それって奥山兄弟ってことかな。
T:最初は…たぶんあれですね、〝マジカルプレート*〟の小冊子『マジプレ通信』。
D:あ、なるほど。あれね、マジプレのオーナーが兄キの友達だったから、あれは兄キが仕切って知り合いライターみんなに短いコラムを書いてもらってまとめたんだよなあ。なかでオレはプロの書き手じゃないのにお前も何か書けよといわれてビーチボーイズを書いた…文章らしいのを書いた最初かも。
T:山名 昇さんとか、豪華な執筆陣でしたよね。そのこととか、他にも「奥山って友達がいて『イカ天』に出たんだよ」とか…なにかとお名前は黒沢さんから出てましたから。
D:あ、そうそう兄キ、『イカ天』で審査員特別賞だからさあ (笑)。
T:なので Vanda のデザインをされた時に僕は奥山さんのことは存じ上げていて。直接の出会いは Vanda でしたけれど、その前から…。
黒沢さんの体調が悪くなったことは僕も知って、病院へ行ったほうがいいですよと言っていたんですけど…。そういえば亡くなる少し前だったかな…高木くんも飲もうよなんて誘われてた時期だったんですけども、「奥山の兄キから電話があって、江古田で渡辺勝さんのライヴがあると誘われたから行ってきたヨ」とも言ってましたね。その頃、ほかにもよく飲み歩かれた話をされていたから…体調が悪い中で、色々な人と会って話をされたかった時期だったのかなぁ。亡くなられてからちょうど丸5年になりますけど…。
T:そういえば森田(純一)*さんのことも…。弟さんがTVの『R&B天国』のアマチュアバンドコンテストに出て優勝されたんですよね、その話も黒沢さんから昔、伺いました。バンド名がたしか〝ワーズ〟だったとかも…。
D:ああノリちゃんのバンドだ。そういえばそんなバンド名とオレも聞いたような…。
T:僕は中学のころに『クロスビート』という雑誌を買っていて。森田さんもそこでライターとして書かれてましたよね。その方がモップスの《雨》の作詞をされた方というのは驚きましたけど…。あの曲は歌詞もメロディも凄く好きだったので。
D:そうなんだよねえ。
T:(《雨》作曲の)菅節和*さんとお友達だったんでしょう?
D:城北(高校)で同期みたいね。
T:菅さんはブレッド&バターのお二人ともかなり仲が良かったそうですね。70年代半ばの頃…ブレバタ・サークルのお一人だったんだと、昔、ブレバタの周辺の方にお聞きしたことがあります。
T:黒沢さんはやりたいことをやり切ったんじゃないかという人もいましたけれど、まだいくつかアイディアを…最後の頃ですけど仰っていましたよね。とくに日本の映画の中のポップス歌唱シーンについて、ぜひ一冊作りたいんだと。【レコードコレクターズ】でもその手の連載をしていましたけれど、それとは別の仕切りで、色々な人に声かけて、もっとフィルモグラフィ/研究本としてちゃんとまとめたいって。けれど体調を崩されていたから…、だから、やりたくても体がついてこないという事だったんじゃないかなと思うんですよね…。
D:音源の発掘をすごくオレとしては期待していたし、黒沢くんにも言った覚えがあるんだよね。GSじゃなくてその後、70年代の日本ロックの…。ただその頃の映像って…無いわけじゃないよね。けれどどれもニュース映像みたいで…とりあえず記録的にフィルムを廻しておきました、みたいなのばかりなんだよなあ。録り手にロック感覚がまるで無いようなモンばかりでしょ、辛いよね。アメリカならモンタレーにしろウッドストックにしろしっかりした〝ロック映像〟があるのに…日本は遅れていたんだよな。
T:GSのことで言うと、僕、昔GSの〝追っかけ〟だった女性から言われたことなんですけど…「あの頃GSは〝聴くもの〟じゃなくて〝観るもの〟だったわね」って。その一言って大きかったんですよ。そういわれると後追い派の僕なんか何も言えませんよね。でも実際、タイガースのデビュー間もない、ごく初期の頃のテレビで洋楽やってる生演奏の映像を以前観る機会があって。それとかゴールデンカップスが《I'm so glad》なんか歌っているTV『R&B天国』の映像なども観れますよね、そこらを見るに本当に凄い躍動感があったり…。レコード盤とは別の次元の凄みがあるんですよね。
D:そうだよね。逆にGSのほうが、その芸能界っぽい立ち位置の功罪でいろいろな映像が残されていない? 対して70年代ロックはまったく商売っ気が無かったから、こと映像に関してすっぽり抜けていると感じるなあ…。その意味でもすべて生演奏であれだけのバンドが出ていた『ヤングインパルス*』は最重要のはずなんだがなあ。
T:僕の興味として、ミュージシャン含めて、70年代のロックフリークの遊び場というのはどうだったんだろうというのがあるんですけど、奥山さん的にはそこら辺ってどうだったんですか? ロックのかかる喫茶店やバーやレコード店…そういう場所に集まっての情報交換というのがやっぱり…?
D:まあ、それだけでしょ、実際 (笑)。なにしろネットも携帯もない時代だから人が人と会う場所だけがすべてだよね。とか言ってもオレ別にミュージシャンじゃないしさ、顔の広い兄キにくっついてチョロチョロしていただけだから偉そうなこと何も言えないんだけどね。なんだろう…やっぱり「シモキタ」が一番だったという印象ぐらい。たとえばウィーピングハーブ妹尾*って人とかソーバッド*組もかな…大阪からこちらへ移ってきたミュージシャンの大半はシモキタに居着いた印象とかね。ロック飲み屋も多かったからあちこちにミュージシャンがいたような…。ただ原宿の店に集まるフォーク勢とか、青山のジャズ屋には結婚前の矢野顕子…鈴木顕子か、山下洋輔一派かな…テリトリーは人それぞれだから何とも云えないか。たんにオレはシモキタでうろちょろしたのが多かったというだけ。
T:よく高円寺のロック喫茶の話が出てくるじゃないですか…。
D:〝ムーヴィン〟か。
T:〝キーボード〟とか。
D:そうか、吉祥寺中心に中央沿線もロックな、ミュージシャンな街だったか。
T:奥山さんはどうだったんですか?
D:まだガキだったし、その手の店って話の種に一、二度のぞいたってだけ。『ニューミュージックマガジン』に広告出したロック喫茶はとりあえず行ってみるとか (笑)。〝赤毛とそばかす〟〝BeBop〟…。あ、それを言えば渋谷の百軒店か…〝BYG〟と〝ブラックホーク〟…〝ギャルソン〟。
T:時代としてはその先ですけど、奥山さんはネオアコ系、モッズ系の音もお好きですよね。幅広く聴いてらっしゃって。パンクとかも?
D:兄キの影響ばかりなんだよね。兄キはパンクにもレゲェにも即ハマった口だから (笑)。
T:テクノとかも? 日本のバンドも聴いてました?
D:ありあり。ヒカシューやPモデルや…なんつってもクラフトワーク大好きだったから。
T:70年代のSSW*やカントリーロックの時代からは変化しますよね、そこらは自身ではどう感じてました?
D:ごくごく自然に…変わる音楽に流されるまま (笑)。頑なにアメリカのローカルなSSW盤だけを探すぞ、オレは…なんてことはまったくなく。
T:当時まだ年齢は若かったけど、パンクには行けなかった/興味が持てなかったという方も結構…。
D:オレ自身は変わらないじゃないの、さっきも言ったようにミュージシャンじゃないから、別にパンク好きになったといっても頭の毛をツンツンにする必要ないし。ウェスタンシャツを着ていたままでダムドやクラッシュ聴いてました (笑)。ミュージシャンでも転向組いたよね、あがた(森魚)がヴァージンVSしたり、昨日までウェスタンブーツじゃなかったの? という印象の久保田麻琴もサンセッツになったしなあ…。パンタだってポップになったし。個人的にいえばどう転ぼうとも (笑)、そのままストレートでも何でもよかった…ようは曲が全てだから。サイケでもポップでもカントリーロックでもテクノでも、いい曲はいいしダメなモンは聴く気にならない…。
T:僕もそういうところ、ありますヨ。60年代が心の拠り所とは思いますけども、それ以降も好きだし、アメリカ派イギリス派、邦楽派というんでもなく、ごった煮で…。奥山さんとしては一番根本にあるものは何だと思ってます?
D:ブログにも何度も書いてるけれど、結局メロディーなんでね。メロディー志向。ぱっと思いつくところでいえばカーペンターズ…《遙かなる影》がすごく大きかった気がするね。
T:中学…ですか?
D:そうそう。
T:僕のなかでは最初に言ったゴダイゴなんかの擦り込みはあったんでしょうね。母親が聴いていたニール・セダカとか、あとカンツォーネとか…間接的なモノも結局大きいんですよね。僕がローティーンで過ごした80年代後半というのは、過去の曲のリバイバルが結構流行って、ティファニーがションデルズの《I think we're alone now》を歌ったりビリー・アイドルも《mony mony》やったり。フィル・コリンズの《A Groovy Kind of Love》とか…、ラジオからもそういうメロディがいつも流れてた時期でしたね。良い時期だったなと思います。
D:ともにやはり音楽はラジオから… Radio Days を過ごしたってことかねえ (笑)。…ちょっと尻切れなんだけどかなり時間使っちゃったから今回はここらで締めましょ。次回を設けてもいいし…。
T:そうですね。じゃあお疲れ様で…。
D:お疲れッス!
【120818 池袋・タカセ】