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“黒沢君の思い出”

こんなん出てきたと、兄キから渡されたのはかなり懐かしいカセットテープ。それは亡き黒沢君と知り合うきっかけとなったGSコンピレーション・テープ。しかしオリジナルではなかった。勝手にカセットにまとめた音源をオリジナルというのもどうかと思うが、最初に黒沢君がダビングして送ってくれたテープ群はラベルがカラーペーパーだったはず…兄キが残しておいたそれは三本ですべて白いラベル…たぶん友人用にダビングしておいた物だろう。

 

黒沢君とは、GS評論家として名を馳せた…といっていいんだろうなあ、黒沢進。亡くなったのが2007年4月、享年五十二か…。早すぎたね。

黒沢君がどう思っていたかは分からないが、ワタシと兄キと…兄弟で黒沢君は友達と思ってずっと付き合ってきた。ワタシは頻繁に会う仲ではなかったが兄キとはかなり深く付き合っていたはず。しかしワタシにしろ兄キにしろ、仕事の上でのからみなどまったく無かったし、単に気の合う、そして音楽趣味の合う良き友達であったと今も思っている。

GSで出会った後に兄キと黒沢君はともに元来のジャックス趣味が高じて、ふたりでシングルを自主制作している。兄キが持っていた早川義夫の未発表曲であった〝前口上〟をリマスターして…。もちろん本人の許諾の上で。早川義夫は長い沈黙からふたたび歌い出す/人前に出ることになったがその後押しには、兄キと黒沢君の尽力あったはず…。

自主制作シングルは「クロヤマレコード」名義で制作。クロサワ+オクヤマである。

 

GSはアナクロの極みであった。音楽趣味を持つ者としてけして触れられない/触れる価値など皆無な「子供だまし」音楽と蔑まれた時期が長かった。もし黒沢君がいなければ…今日までも続いたとまでは言わないが、再評価の先陣を切ったのが彼だったことは確か。黒沢君の文章で目から鱗が落ちた読者は数知れずだろう。今では海外でも Japanese Garage Punk として評価されるのはひとえに黒沢君の功績だろう。

 

黒沢君が『日本ポピュラー史研究』を自費出版したのは82年のこと…か。

それに気がついたのはワタシで、新宿のレコード屋、何か盤を買った際にカウンター脇に積まれていたこれを見て一冊ついでに買って帰った。いやその面白い事! 兄キにもみせたんだな。

ただ、黒沢進の名前なんだが…。関西のショップ「フォーエヴァー」が出していた『Forever Magazine』はその道のコレクター総集合のコアファンジンだったが、家にあったそれを、今ネットで調べると5&6号。そのどちらかにあった投稿記事はGS「シャープファイブ」に関してだったはず。それを書いていたのは当時の黒沢君の盟友であったろう、千葉・流山に住んでいたH氏。そこにH氏と黒沢君が共著として『日本ポピュラー史研究』を発刊とあったようにも記憶する。そのときにGS=黒沢進の名前は見ていたのかも…。

なので、新宿でそれを見たときに、『Forever Magazine』に出ていたアレ…と思ったのかもしれない。

ともかく、兄弟ふたりして〝GS再評価〟雑誌には注目した。で、その巻末にあったのが【テープコピーサービス】。有名どころからレアバンドの音源まで網羅したGSコンプリートカセットコピーをテープ実費だけでしてくれるというから驚き、さっさく注文したのだった。

 

送られたきたカセットは…たしか二期に分かれていたと思うが、合計では20本を越えていなかったか。有名バンドは単巻で、B級モノはコンピされていた。ここではじめて〝B級GS〟という概念が? 生まれたんだろう。

都合良くネット上にあった。やはり当時コピーを依頼した人はいたんだよね。

 

黒沢テープ

 

そう、これこれ。

惹かれたのはやっぱりB級モノ。ワタシと兄キと近所のモリジュン先輩を呼んで聴きまくったが、いや〜笑いと感涙の嵐であったな。とくに現在ではカルトGSの超有名曲となったレインジャーズ{赤く赤くハートが}の衝撃=笑撃、腰が砕けた…。

その曲を含む『魅惑のB級GS』が手元にあるので収録曲を入れておこう。

 

【A】

 レッツ・ゴー・レインジャーズ/レインジャーズ

 赤く赤くハートが/レインジャーズ

 逢いたい逢いたい/ナポレオン

 渚のルビー/ルビーズ

 サロマの秘密/バロネッツ

 野菊のようなあの娘/ヤンガーズ

 思い出の京都/サニーファイブ

 星の王子様/スケルトンズ

 別れた湖/ジェノバ

 恋を消すんだ/ナポレオン

 貴族の恋/レオビーツ

 ワンモア・プリーズ/ブリージーンズ

 悪魔のベイビー/クラックナッツ

 恋する星空/テリーズ

 夜行列車/リリーズ

 さよなら、ナタリー/ルビーズ

【B】

 二人だけの恋/テリーズ

 レッツ・ゴー・ピーコック/ピーコックス

 愛の祈り/ジェットブラザース

 すてきなエルザ/ライオンズ

 クライ・クライ・クライ/エドワーズ

 素敵なタミー/ダウンビーツ

 黒い瞳のアデリーナ/リリーズ

 赤毛のメリー/ガリバーズ

 ある恋のエピソード/バロネッツ 

 イマジネイション/リリーズ

 J&A/クーガーズ

 たった一言/サマーズ

 悪魔がくれた青いバラ/リード

 真昼の星のように/キングズ

 サリーの瞳/レインジャーズ

 ムスタング・ベイビー/ムスタング

 

カセット実費だけで、手間を惜しまない発行者に対して頭が下がる思いということで兄弟して2000円づつぐらい出しあっただろうか、図書券にして送った先が黒沢君のところだった。

ほどなくお礼としてハガキで返信してきた黒沢君…「いやあお金が無いなかでひじょうに助かります」と。返答…来られない距離じゃなし、一度我が家へおいでよと誘ったのは兄キ。杉並の外れから東上線の鶴瀬まで黒沢君はやってきた。

最初の印象はまあ想像どおり?、かなりオタッキーでした^^…。 秋田生まれでぼそぼそと喋る猫背の黒沢君。明るい印象はないが、それでも言葉の端々に洒落が効いているところが面白かった。うちら兄弟とかなり打ち解けた感じで、その後もたびたび飲みに来たのだった。

楽しかった。酔いが回ると〝眼が据わる〟黒沢君。…おっと、兄キと同い年だから三歳年上の黒沢君だったが「黒沢さん」とは呼ばなかったのはワタシの悪い癖、あいすいません…もういいか…。

その酔った黒沢君を「キタ〜、黒沢の眼が据わった〜」と兄キ。そうなると声がやたらと大きくなる、藪睨みでけんか腰だったがあまり相手をせずに笑いながら一緒に飲んでいたもの…。

それは後年だが、ワタシが結婚して新宿に住んでいた頃の事、数人で我が家にやって来た仲間のなかにいた黒沢君はすでに雑誌への執筆や著作でそれなりに知られる存在になっていた。

「いやカボ(ワタシのあだ名です)さ〜、俺も最近ソフトロックのことを聞かれることがあるんだけどね、正直よく分からないンだ。なんかレコードある?」と言う。なのでアソシエイション/スパンキー&アワ・ギャング/ブルース&テリーあたり、何枚かかけて聴かせた。焼酎片手にレコジャケを持っていたかと思うと急に大声を出した。アワ・ギャング盤が気に入ったようで…「そうか!これだったのか〜!!」と絶叫されてワタシャ参りましたがね(笑)。

 

知り合ってから2〜3年後には、知る人は知るというかコアなファンが集まりだした…黒沢教の若い信者が増えつつあった。そんな頃のこと、あれは新宿・伊勢丹の屋上、『ネオGS live』が催され、それに黒沢君が絡んでたんだろう…誘われたので兄キ含め3〜4人で覗きに行ったのかな。

その場では黒沢君は権威として扱われていてまんざらでもない様子だった。といっても天狗になるような性格ではない…ワタシらはニヤニヤしながらも、まあ黒沢君の立ち位置が決まりつつあるのでよかったと見ていた。

その後の活躍は知られるとおり。その立ち位置を面白がる業界人は増えてゆき、それはそれでよいことだったが、当然なかには変な輩もいたらしい。そこでも「オマエなぁ…」とケンカできる黒沢君じゃなかったからそれなりにストレスを溜めていたのかも知れない。

年下のワタシにグチるような事はなかったが、兄キは飲みながらそんな話もしていたという。

 

そして…体調を崩しつつあることは兄キから何度か聞かされていたので心配はしていたんだが…。それでもまさか亡くなるとは思いもしなかった。黒沢君、ほんとうに残念です。

ワタシにとって最後になったのは mixi だった。誰か分からないハンドルネーム氏がマイミク・リクエストをしてきたが、文章から判断するに黒沢君だったはず。

返信で「なにこれ? クロサワくんだよねぇ…」と送ったんだが結局 no reply ... のまま。

もし生きていれば、こんなウェブを始めたと知らせればきっとコラムのひとつも書いてくれただろう…「面白そうなこと、始めたじゃん」と言ってくれただろうな。

 

ではまた! クロサワくん

 

 

 

 

  1991年、兄キ宛の年賀状が出てきた

 

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(2012 Denny_O_Sakatomi)