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D's Talk session #17 with 和佐田 達彦 page_2
TOPS:通活動期は '86〜'91_オリジナルLP 5枚だが和佐田君は3枚目まで?
レーベル:大久音盤社 website
竹内藍:→WEBsiteです

W:それと同時期の事なんですが、それまでライヴというのは高校の時以来やったことなかったんですね…それが東京へ出てくるバンド、Itachi というんですけど、そのライヴがあったんですよ。その時凄い人数が集まりましてね、会場に入りきれんほど…。そのバンドのリーダーの人が当時大学生だったんですけど学生でありながらラジオの番組持ってて…おもろいMCもする人でね、東京で云うたらダディー竹千代さんみたいな…。京都の人気者だったんで客が凄かった。ホーンセクションも入れた八人編成のバンドだったんですけど盛り上がって。その時に俺、初めて音楽的に興奮…覚えたんですね。グワ〜っと自分のなかで盛り上がった。

D:これだったんだ!と?

W:ええ。俺の求めていたのはこれなんだと思いましたねぇ。それまではスタジオ・ミュージシャン、その仕事で得られるモンがこの興奮じゃないかと想像していたわけです。けれどライヴがこういうモンならば、このままバンド活動をしばらく続けてみようと。それと東京の音楽学校へ行く計画もあったでしょ (笑)、それもなんか違うなあという気持ちになってきて…東京へ乗り込むならバンドでいこうかという感じに変わってきたんですね。

そんなんしてるうちに「京都に凄いベーシストが現れた」いう噂が流れ出して…。ん、ライヴァル現ると思たんやけど、聞いたらそれ俺のことなんですよ。そこでまたその気になって…やっぱ俺は天才やんかと (笑)。あちこちで誉められてすっかり天狗になってましたね。その頃京都でナンバー1ベーシストと云われていた人がいまして、そこのバンドとある時対バンになりました。こっちは血気盛んな頃だったんで、どんなもんか見たろうと…もし本当にとんでもなく上手かったらボコボコにしてベース弾けんようにしたろと思って…。

D:なんだそりゃ? (笑)

W:喧嘩っ早い頃だったんですよ。でね、見たら…なんて言うのかな、歌心のあるシブ〜い地味なベーシストで。当時はそういう「上手さ」がちっとも分からなかった、今から思うとめちゃめちゃ上手いんです。でも、こりゃ俺の勝ちやなと勝手に思ってしまいましたね。あらぬ方向に腕力使わなくてよかったんですけど (笑)。

D:なんという人?

W:山田晴三という人です。

その人が全部のステージが終わった時に俺んところへ近寄ってきてくれたんです。こっちは睨み利かしてますよね、「ナンジャイ!」…みたいな (笑)。そしたらニコっと笑って、歳も上の大先輩ですよ、わざわざ俺ンところ来て言うんですよ、「君、和佐田君言うんか? 」…向こうも俺の噂は聞いてるんです。「君凄いなあ。俺にベース教えてくれへんか? 君のチョッパー、俺弾けんから教えてくれへんか? 」て。そ時、ああこの人には負けた…思いましたね。こんな若造に教えてくれって言えるのにびっくりしましたヨ。なんか人生訓みたいな話ですけど… (笑)。

D:なんかさぁ、藤子不二雄の『まんが道』じゃないけど、ところどころで〝この人との出会い〟があってここまで来ました〜…みたいな? (笑)

W:ええ (笑)。いまでは晴三さんとは仲良くさせてもらってますけどね。俺はホント、いい先輩に恵まれてるなあと思ってますねえ。

D:その後のバンド活動は Itachi というバンドがメインに?

W:そうですね。東京殴り込みツアーみたいなんもあって…。

D:東京へ出てきたの?

W:いや、ライヴだけですねその時は。というか、京阪神でその Itachi というバンドは凄く盛り上がってきたんですよ。東京でいう「ぴあ」みたいな情報誌でエルマガジンというのがあるんですけどね、その人気投票で3位になってたりして、またそこでも出会いがあったんです。その人気投票のベスト5バンドが一堂に会するイベントがあって、その総合司会をやっていたのが嘉門達夫だったんです。(笑福亭)鶴光さんとこ破門になって歌を歌い出した頃ですね。

D:その時は「嘉門達夫」になってたの?

W:なってすぐでした…。そのイベントで嘉門達夫が、俺たちのライヴがすごい面白いから一緒に何かやらないかと言ってきたんです。その後俺たちのライヴの、一部二部の合間の時間で歌うようになったんですね。

D:歌って? あのネタ?

W:そうそう。それがもの凄く俺らのファンにも受けたんですよ。そんなことで達夫とツルんでやるようになって…。で、「嘉門」という芸名はサザンの桑田さんからもらったんですよね。桑田さんがソロでやるときの嘉門雄三という名前から。その桑田さんがらみでアミューズへ売り込みに行きよったんです。それがうまくいって。その時に俺らも引っ張ってくれたんです、東京へ来いと。そこで元スペクトラムの新田一郎さんを紹介してくれて、俺たちの東京デビューが決まったんです。それまで京都で5年ぐらいやってましたけどね。俺らの意識としては関西出たくなかった…。

D:でも関西にとどまっていたらレコードデビューは…?

W:それはできないですね。なのでプロデビューしても東京へは通いたいと…。

D:なるほど。レコードは出しても拠点は関西で、東京仕事はそのつど行くと。

W:そのつもりでしたが事務所から言われましたね、誰がいちいちその交通費出すんだと。プロでやるなら東京に住めということになりました。

D:契約はアミューズと?

W:いや、新田さんの代官山プロダクションです。ただ新田社長は元スペクトラムで、アミューズの1号アーティストだったそうで辞めてからもアミューズとは関係深かったと思います。代プロには4年半ぐらいいたんですけど、新田さんからプロのイロハを教えてもらったというか…勉強になりましたね。京都での5年と代プロでの4年半、売れなかったですけどためになりましたねぇ。

D:ほぼ10年だね。もう30近くになっていたんだ?

W:そうですね。全然食えなかったですね。29になってて収入ゼロですもん。働いてないンで給料が出ないんですよ。家賃と光熱費だけは出してもらって、まあ雨風だけは凌げるという状態でしたねぇ (笑)。

D:ふ〜ん、でもレコードは出してたでしょう?

W:Itachi としてはまったく音源は出てないです。TOPS * との違いは… Itachi というのは男ばかりのバンドだったんですけど、そこへ女性がふたり入って…最初コーラスでお願いしてた女性なんですけど、参加ということになって TOPS へ変わったんです。

D: Itachi としてはオリジナルをやっていた?

W:そうですね、全員で書いた曲を。

D:それはかなりファンクな…モノ?

W:全員の趣味趣向としては アース、ウィンド&ファイアー やスティーヴィ・ワンダーだったなあ、ああいう曲を日本語のオリジナルでやってみようということで…。それやブルース・ブラザーズとか。そのバックにあるオーティス、サム&デイヴ、サム・クック…そういうブラック志向ですね。当時のライヴ音源をファンが客席で録っていたのをもらったんですが、それを聴くと俺たちこんなに黒かったかと思いますね。

そこに女性が入って…都合10人のバンドになりました。ホーンセクションもいたし。でも俺たちは女性が入るなんて夢にも思ってなかったんですね。それはプロデューサー新田さんの意向でしたから。

D:新田プロデューサーとしてはあの手この手で売りたかった…?

W:まあそうですよね。何度もミーティングをしましたね…結局言われたことは「コアなブラック志向は捨てろ」ということです。バンドは〝ブラスロック〟路線になって行きました。

D:それって…まあ新田さんの古巣のスペクトラムでしょう、やっぱり。ある意味その路線で売れることに拘ったというか、託したという感じもあるね。

W:そうですね、重荷でもあったし余計なお世話…という面も感じたりもしたんですが、とりあえず言われるままでどうなるのか、やってみようという意思統一は図りました。

D:新田社長としてはサザンのブレイクも間近で見ていたし、その前のキャンディーズやら…芸能界的方法論の確固たるモノを持っているという自負もあっただろうしなぁ。

W:そのためのプロデューサーですからね。密接にかかわってくれたわけです。勉強させてもらいました…やっぱり関西しか知らなかった俺らは意識が浅かったんですよ。関西のミュージシャンは地元しか、もしくは地元と「対東京」という意識しかないんですね。けれど東京のミュージシャンは全国を向いてるんですよ。売れてないバンドでも驚くほど上手いし、もの凄く熱いモンを持っているのに驚かされましたね。レベルが高いですよ。

D:新田社長の…ぶっちゃけ言えば「売れ線」方法論でしょう…、それはハマった?

W:今の君らの客のキャパの500(人)だと…、その壁を越えて1000、3000、5000の壁を越えるにはこうこうしなければならないと言われるんですが、見せられるのがサザンでしょう…大きすぎて俺らには分からないんですねえ (笑)。新田さんは途中を見ているけど俺たちはスタジアムのサザンしか知りませんから。

D:世の中、簡単には進まない…?

W:ずっと売れませんでしたね。けれど何かアピールするモンを作っとこうと思ってベースの基礎練習は、まあ時間はいくらもあったんでね…すごくやりました。それが貯金になったのは確かです。実際、爆風として売れたでしょ、そうしたらまったく時間は取れなかったですから。

D:そりゃそうだろうなあ。ところで、こう言ったら酷かもしれないけど、TOPS はまあ成功することなかったわけで…和佐田君以外は夢破れて故郷へリターン…?

W:ええ、そうですね。ただみんな音楽続けてますよ、向こうで。いや、ホーンセクションの三人は東京で続けてます。

D:う〜んなるほど。当時って、まあ売れない中で…バンド内の葛藤は?

W:当然ありましたよ。やっぱり話し合っていてもだんだん暗くなるんですよね。売れていたらこんな雰囲気にならないンだろうか、売れてたら社長の小言も頂戴せんで済むんかとか、いろいろと考えるんですね。余裕ないから飲み歩くこともできないでしょ、それ出来たら友達も増えて面白い事も広がるでしょう…考えますねえ。歳は否応なしに食ってくるし、やっぱり一番は生活の不安ですね。

D:経済的なベースだよなあ、なんつっても…。

W:「潮時」が頭によぎって来るんですよね…。売れることを目指しての活動である限り、先を先を見てしまうんです。今になって思うんですが、もしバンドが京都で Itachi のままやったら俺は売れなくてもず〜っと…いまでも続けられてたと思いますね。あの仲間でバンドをやっていること自体が代えがたい快感でしたから。楽しいンです。売れる/売れないはまったく関係なかったですから。

売れるということは分かりやすいんですよ、売り上げ枚数や動員数ですぐに出てきますから。それに対して「いい物を作る」というのは難しいですよね…明確な基準なんて無いですから。でもミュージシャンは誰でもいいモンを作りたいわけですよ。そこで悩みますよね。俺もいろいろと考えましたけど、結局は…自分ですよね。自分自身で問うてみて納得する物かどうか、それだけですね。現時点で自分で出来るベストかどうか、これだけが判断基準ですよ。

Itachi のライヴ音源を後生大事にしている人に…数年前のことですけど、逢ったんです。ずっとそれを聴き続けてくれてると言うんですね、自分にとってとても大事な音楽だと言われた時にやっぱり感動しましたね。そんな風に思ってくれる人がいたんだということ、それは当時の Itachi がピュアに音楽をやっていた証しですしね。自分らが楽しむという情熱が観客まで伝わっていたことでしょう。それでいいんだと吹っ切れた気がしました。

ライヴにしてもアルバム作りにしても自問自答してます。これが最後の仕事だとしてお前は悔いないか、これでいいんか? …それに「OK!」と答えられるモノにしようとしてますね。

D:最近は自身でレーベル * も立ち上げて…。

W:そうですね。最初は俺のソロ活動と思っていたんですけど、どうやっていったらいいか…まずサンプルが欲しいと思ってバンドを探したんですよ。けれどあまりいいバンドが見つからなかったんですけど、ある女性SSWと知り合ったら、その声がいままで感じたことがないような浸透力というか…ズコ〜ンと入ってきたんですね。それで彼女(竹内藍 * )のアルバムを作り始めて。もう4枚出してるんですよ。彼女は俺以上に覚悟持って音楽に取り組んでるんで凄いですよ。

D:爆風(スランプ)のことをちょっと聞きたいんだけど、まあ正直「爆風のベーシスト」というのは和佐田君にとって名刺代わりになっているでしょう。そのメリット/デメリット…オレなんかには計り知れない事だけど、そこらはどんな感じですか?

W:確かに、人を紹介してもらう時とか、ライヴハウスね…知らないライヴハウスなんかでも爆風のネーミングでだいたい一発でOKなんですよ。「やらせてください、爆風のベースやってるモンですけど…」で「ああ、どうぞどうぞ」になるんです。ただ、ずっと売れてない人よりも売れたことあって売れなくなったほうがシビアですよ。最近見ませんねぇとか、まだ音楽やってるんですか? とか言われるほうが辛いかな。ただ爆風があのまま売れ続けていたら俺はミュージシャンとしてどうだったかなという思いもあるんです。売れたことは否定しないし、恩恵の大きさも確かですからね…でも今だからこそ本当のミュージシャンの姿をお見せしましょうという気持ちになってますヨ。売れなくなったこともマイナスじゃないと…。爆風の時より、売れている忙しさのなかでよりもその後…活動休止後のほうが豊かな人脈というか、多くの人との繋がりができましたからね、本当に。

あるミュージシャンに言われたことなんですが、「僕はプロミュージシャンの世界は経験しているけど、売れた経験ないですよ。和佐田さんはそれを経験してるんですからすごい財産ですよね」…そう言われて確かにそうだなあと。誰でも経験できることじゃないんだからやっぱりええ事やったなぁと思えます、今では…。

 

 

 

 

130327 日吉「喫茶&軽食 まりも」