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RIP... モリタケさん 2013年5月_ |
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D(以下Denny):え〜モリタケさんですが、まずは…生まれが?
M(以下 森):赤羽。赤羽小、岩淵中、都立王子工業高校…機械科。
D:卒業制作は万力…立派な旋盤技術で高校を卒業され… (笑)。
M:先輩が、ブルーコメッツでベース弾いていた人と柄本明。柄本明は最近知ったんだ。
D:ブルコメの目立たな〜いベースのおじさんと柄本明ねえ…。
M:それから日本デザインスクール/グラフィックデザイン科。
D:あ、そうだったの? デザイナーになろうとしてたんだ。
M:いや (笑)…。
D:ギターの最初は中学ぐらい?
M:だな。ベンチャーズで。高校の時にバンドやって、そのバンドで夜の仕事へ… (笑)。一応オーディションがあって受かったんだよ…ディスコ…というより当時は〝ゴーゴー〟。最初が蕨のゴーゴーホール。
D:ハコバン*?
M:いやハコバンじゃない。今日は赤羽、明日は池袋、次は新宿…とか。一晩のギャラが四千円だったかな…。
D:高校生バイトとしちゃよかった?
M:たいしたことないヨ、アンプの月賦とかで終わり…。その頃のゴーゴーバンド仲間に練馬工業のバンドあって…。
D:工業高校はそんなんばっかりやってたんだね (笑)。
M:まあな (笑)。…で、そこの先輩バンドってのが天井桟敷をちょこっと手伝ってたんだ。それで、俺らも卒業の段になって大学行くヤツはやめるし…俺はそっちに誘われて天井桟敷へ行った。十九の頃かな。
D:ゴーゴーバンドの頃ってどんなことやってたの?
M:最初はビートルズとかストーンズで、それとやっぱり踊る場所だからソウルっぽい物…サム&デイヴとかジェームス・ブラウンとか。
D:やるねえ。
M:いや、コピーもうまくできなかったから (笑)…かなりいい加減。
D:それっぽければOKだった?
M:そうそう (笑)。そのうちにだんだんロックっぽくなって…69年頃だからクリームだのヤードバーズだの…。平気で1曲を20分ぐらいやったりして。それでもOKだった。
D:あまりちゃんと聴かれてない (笑)?
M:長い分にはOKなんだけど、途中でテンポが変わると怒られた…踊れないって (笑)。
D:その頃の夜のバンド仲間で後に知られるような人はいないの?
M:知られるって事もないけど、乱魔堂*の猿山くんのバンドがあったな、ギターが山ちゃん…山崎隆史。キーボードが「風都市*」へ行く上村くん…。
D:上村律夫さん、名前は聞いたことがある。
M:桟敷をちょろちょろやり出した頃に、池袋のヤマハで洪(栄龍)さんと知り合った。
D:ヤマハとはなんで?
M:今野*がヤマハへ就職したんだよ。俺もそうだけど洪さんもかなり店へ来てて、話をするようになった。乱魔堂を始めた頃、まだレコード出してなくて渋谷の BYG でライヴやり出した頃かな。俺はその後ずっと天井桟敷。
D:あれ、デザイン学校は?
M:行ってたよ。行きながら…。学校って別になんでもよかったんだ。まず試験はかったるいじゃん…なら専門学校かなと。音楽雑誌とかみるとギタリスト、クラプトンとかベックとかキースとか…みんなアートスクール行ってんだよな。後で聞いたらイギリスでアートスクール行くのって落ちこぼればかりだって (笑)…。実際俺らもそうだったけど。一生懸命やってんの1割ぐらいで、後はヌードデッサンしか出てこないとか (笑)…。
M:そう言えばこの間30年ぶりでシーザーのライヴやったんだよ、言ったよな。
D:聞いた。どこでやったの?
M:昔のリキッドルーム…今は新宿 FACE 。
D:人は入ったらしいね。
…昔の事だけど、天井桟敷での音楽ってのは…芝居のバックで生で演奏?
M:前もってテープを作っておくのがほとんどだった。
D:それは寺山(修司)さんが四の五の言うの?
M:全然。いや、…まあ寺山さんとシーザーの間ではいろいろあっただろうけどな。
D:シーザーが音楽監督か…。桟敷でやってたのは芝居の時だけ?
M:あと映画も…。
D:芝居や映画の音録りと…シーザーのレコーディング?
M:シーザー自身のレコードってのは青年館でやったライヴしかないんだよ、当時は。
D:芝居での生演奏ってのは?
M:あるよ、『邪宗門』とか。
D:録音として残っている桟敷の盤で、モリタケさんがからんでいるのは何枚ぐらいあるの?
M:全部。いや、一番最後かな…『さらば箱船』とかいう映画があるけどそれはやってない。あと一番最初の『書を捨てよ町へ出よう』もやってない。ここには何曲かでさっき言った先輩バンドがからんでいて、ギターを弾いているのは左右英一…頭脳警察のオリジナルギタリスト…。凄くギターが上手かった。キーボードが柳田ヒロさんかな。臭いところな (笑)。
D:かなり濃いところ… (笑)。
M:ただ当時は天井桟敷でシーザーがやっていたこと…まったく音楽的には評価されなかったからなあ。いまでこそ70年代サイケデリックとか云われるけれど当時はまったく評価なし。
D:【薔薇門】ていうLPがあったじゃない…あれは?
M:あれ、俺やってるよ。オカマの…。
D:何あれ?
M:東郷健さんとかオカマ連中の盤。
D:それは、寺山さんが面白がって自主制作させた?
M:あれ、最初はURC*からじゃなかったかな。
D:シーザーの【鬼火】というタイトルのコンピCDをディスクユニオンが出してるよね、第一集に続いて最近第二集か…あれは?
M:昔のレコをまとめてるボックス、結構な値段するんだよな。
D:売れてるんでしょ、あれ。モリタケさんがギターだよねえ、…煙草銭ぐらいの印税は?
M:全然…何の連絡もなし…。
D:そりゃひどいね。それでも、今頃になって日本のサイケの夜明けとしての評価を受けてる?
M:極々一部な (笑)。やってる方もそんな意識なかった…。
D:それでも当時エフェクターとかがんがんカマせて?
M:いやいや、Big Muff だけ (笑)。
いま聴くと、当時もっと一生懸命にやっておけばよかったと思うんだよな。すごく適当にやってるモンなぁ…。シーザーもギターに関しては何も言わなかった…。若造だし…何も考えてないじゃん、当時は。
D:高校の時にゴーゴークラブのバンドで始めて…まがりなりにもギャラが入ってセミプロっぽく業界人生が始まったわけじゃない。で、寺山さんのところへ行って初めてレコーディングという体験するよねえ。プロになってビビった?
M:いや、全然そんなことなかった。だから今になって聴いて思うんだよな、もうちょっとちゃんとやっておくべきだったって。
D:それって、いわゆるバンドの録音…クラプトンやベックがやっていること、それとは違って自分は〝芝居のバック音楽〟をやっている…ひとつ後ろの録音をしているという意識があったのかな?
M:そんなんも無かったな。たんにギターを弾けているだけで満足だったから。会社勤めとかせずにいられるからOKとかさ… (笑)。
ずぼらなんだよな、結局。地方から出てきたやつって頑張るじゃん、アパート代も飯代も稼がなきゃなんないし…。でも東京(生まれ)だからさ、寝る家あるし飯だって残りモンでもとりあえずあったわけよ (笑)…。いまでいえばニートみたいなモンだよな。
D:ギターをかかえたニート (笑)。
桟敷の仕事ってそんなに時間的に拘束されたわけじゃないでしょ?
M:そうだよなあ。昼間とか何してたんだろ、俺? (笑)
D:何年桟敷にいたの?
M:いたんじゃないよ、ただギター弾いていただけ。19から…え〜と、シーザーとケンカして別れるんだよな (笑)、…28、9までじゃないかな。
D:あそう、結構長くやっていたんだねえ。
M:10年近くか。
D:ギャラは? 月給?
M:月給はなかった。仕事やるごとに微々たるギャラを…。それも最初はノーギャラでさ、俺ががんがん言ってやっと出たのよ。そうしたら「森は金に汚い」とか言いやんの (笑)…。やった分ぐらい当たり前なのにな (笑)。当時劇団員は毎月劇団へ金を納めていたんだ。
D:(落語の)立川流だね、まるで。
M:だからバイトして上納したうえに芝居のたびにチケットのノルマがあって (笑)…。
D:それに比べれば俺は楽だったとか?
M:デザイン学校のときは仲間と遊びでバンドやってて青い森*とか出たヨ。デザイン学校の1年先輩が奥津*っていって、古井戸が4人の時のメンバーでさ。
D:あ、光洋さんだ…奥津さんが学校の先輩だったの? 意外なつながりだなあ。オレは奥津さんて見たこともないんだけど、RCの清志郎がよくその人のことを語っていたからね…。
M:チャボにも会ったヨ。学校の奴らが主催したパーティがあってさ、俺もバンドで出て…そこに来てた。後になって、(取材で)会った時に聞いたら覚えていた…テレキャスターの森君だ〜! って… (笑)。
※ 額に何を書いてますか?_トンガってたモリタケさん:右がシーザー