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D's Talk session #19 with 斉藤哲夫
“稀代のメロディメイカー、哲夫さん”

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【斉藤哲夫】saito tetsuo
saitohface
URCalbum
バイバイグッバイ
バイバイグッバイ グッドタイム
今日と明日をむすぶかけ橋  どうぞよろしく  夜空のロックンローラー

Denny's voice :

ハイトーン・ヴォイスの斉藤哲夫さん。きっぷがイイというか、威勢の良い語り口…手振りも交えて大きな声は、東京人の照れでもありましょう。あがた森魚/鈴木慶一/岡田徹さんたちのお話も実はさっぱりしたもの…そのニュアンスがちゃんと届くような文字起こしになってますかねぇ…。くみ取ってください。

過去、お会いしたことも無い単なるファン、前回トークの渡辺勝さんに無理に頼み込んで紹介してもらい、このトークセッションをお願いした次第。ソニー時代の三部作への思い入れは人一倍と思っていますが、屈指のメロディメイカーの哲夫さん…「永遠のアマチュア」だけが紡げる唯一無二の世界に惹かれる者は私の周りだけでもほんとに数多いのです。

’11年の秋に脳梗塞を患った斉藤さん。現在でも以前のように長くステージで歌うのは辛いとのこと。話ているとつい興奮してね (笑)…と言われるので、セーブしたつもりでも…90分ばかりお話を伺うことができたので、その全文をここに。普段は文字起こした後で話し手の皆さんに校正してもらいますが…「いいよいいよ、まずいこと何も喋っちゃいないから!」と (笑)。

アーティストの活動期やレコード発表、それと人との出会いなどで、時系列が実際と違う箇所もいくつか見られますが、誰もがレコードは出てすぐに買って聴いたわけでもないでしょう。それと、なにぶん古い記憶での会話という事を加味してあえて修正は入れません。内容は分かってもらえると思います。

なお前回の渡辺勝さんとのトークとリンクするところが多いのでそちらを読んでから…どうぞ。

アルフィ:The ALFEE_坂崎幸之助/高見沢俊彦 /桜井 賢の三人_高見沢と桜井が明治学院高校だった
オーパス:立教大の音楽サークル(詳細は Talk Session #18 参照)
早川義夫:元ジャックス_当時は URC のディレクター
ハッティ・キャロルの寂しい死:The Lonesome Death of Hattie

S (以下 斉藤):これ、君にあげるよ。…最近のCDをいきなり僕にくれた哲夫さん

《吉祥寺》なんかさ、【バイバイ(グッドバイサラバイ)】に入っている《吉祥寺》じゃなくてさ、ほんとにやりたかった《吉祥寺》がここにあんだよってことでさ…。

D (以下 Denny):そうですか。まあそこら辺の話を伺いたくて(インタビューを)お願いしたンですが…。

 <ここで酒冨Tシャツと雑誌Vandaを進呈

これ、最近僕が仲間ウチで作った…ミニコミ雑誌なんですよ。〝ソフトロック〟という括りで、あまり一般のロック雑誌が取り上げないような…イージーリスニング的というかソフトなサウンドに関してこだわった音楽誌です。

僕自身メロディ志向が強くて、ビーチボーイズ、とくにブライアン・ウィルソンが大好きなんですが…。そこでですね、僕はもちろん、周りにもファンが多いのが斉藤さんのCBSソニー時代の三作品ですね、素晴らしいメロディとポップスセンスといいますか…どうのようにしてあの三枚が出来たかというところを伺いたいわけです。その前にちょっとプロフィールを…お願いします。ネットで見せてもらって…お生まれが埼玉・鴻巣なんですね?

S:そう、埼玉。

D:生粋に大森の方と思ってました。…50年の生まれですから(渡辺)勝さんや(鈴木)慶一さんと同じですね。

S:勝は一緒だけど慶一は一年下だよね。

D:URCから《悩み多き者よ》でデビューされたのが…19、ハタチ?

S:そうだね。

D:その経緯を教えてもらえますか?

S:ずっと曲作りはやっていたよね…で、一番尖った曲が《悩み多き者よ》で。ビートルズはやっぱり聴いていてさ、凄いなぁと思っていたな。でもとてもじゃないけどビートルズみたいなバンドなんかできないし、やれたとしても Them とか Animals とか…。

D:いわゆるビートバンドですね。

S:シンプルで簡単じゃん。ビートルズって転調多いしさ、どんなコード使ってるかよく解らないわけよ。コーラスもあるでしょ。当時は演奏しながらコーラスなんてとてもじゃないけどできなかった。彼らは69年ごろ解散するけど、あの頃には【Abbey Road】【Let it be】、恐ろしいレコード世界を作っちゃってるわけよ。

D:はいはい。

S:俺たちはその頃から始まるわけだもんねぇ。で、ゼムとかやってたんだけどそれも上手くできなくてさ (笑)。

D:それは高校のころですか?

S:そうね。明学(明治学院)の…。それからフォークに出会うだよな…カレッジフォークの世界。森山良子とかPPMとかキングストントリオとか。

D:フォークのほうがまあ楽というか、やれそうな感じが…。

S:そうだよね。でさ、ディラン…だったなあ、オリジナルを作って歌ってる盤があると聞かされてそれを…《時代は変わる》だ、あれを聴いて…(《悩み多き者よ》が)できちゃったんだ。プラスアルファでビートルズも聴いていたから…ジョン・レノンがさ、ディランを聴いて作ったと思うんだよ、《悲しみをぶっとばせ》を。

D:《you've got to hide your love away》ですね。

S:俺もやっていいんだと思ったんだ、ディランをジョンがまねてるんだからさ、俺がやったっていいじゃないかと。ディランのメッセージ性とジョンの感性かな、それで《悩み多き者よ》ができたんだよ。

D:それは高校の…?

S:え〜と、そうだな、高校の時にはできてたな。でさ、録音は69年かそこらだったんじゃないの。できてすぐに高校へ持って行ったんだ。大学生になってたけど、高校の先生のとこへ「俺こんなの作ったんだ」…ってことで。明学ってプロテスタント(系の学校)でさ、朝礼がチャペルであるんだよ。そこで賛美歌を歌ったりすんだけど…そのレコードを先生が朝礼でかけたんだな。高校生の前で…そこで聴いていたのがアルフィ * でさ。後になって「哲夫さんの曲を聴かされたよ」って言ってたワ (笑)。

D:そのシングルが、この間勝さんとのトークで、勝さんの最初のレコーディングと聞かされたんですが、URCから出るきっかけは何だったんですか?

S:明学に行ってたんだけど、(学生運動の)時代だよな…閉鎖閉鎖でつまんないワケよ。でさ、ビクターの主催で、高石友也が一番スターだった時代で…『あなたもフォークキャプで歌えます』だったかな、高石事務所がやってる野音のステージにアマチュアがられる…それの予選だな、それに出たんだ。俺は12弦持ってベースの仲間とふたりで。そこに来てたのが勝のグループやソルティシュガー。ソルティシュガーの《走れコータロー》が受けて、合格したんだ。けれど俺らや勝はダメでさ…でもそこで勝と知り合った。そうしたら「立教へ来ると面白いよ」というのよ。当時立教の反体制(運動)は緩くて、封鎖もなかったんだよな。それで立教へ行くようになって「オーパス」* と知り合うんだ。そのオーパスのなかで《悩み多き者よ》の形ができていくわけ。

D:はあ、なるほど。

S:で、勝がピアノを弾くっていうんで…8分の6拍子でピアノを付けてくれる? って頼んだのがあの〝♪チャンチャン、チャン〜♪〟なのよ。今考えればあの〝♪チャンチャン、チャン〜♪〟てさ、カンツォーネ。まさにイタリアのカンツォーネだね。

D:カンツォーネですか。

S:あと、あれもそうだね、Sonny & Cher 。分かる?

D:はいはい。シェールは名前からしてもそういう血があるんでしょうねぇ。

 <《悩み多き者よ》から急にソニー&シェールへ飛ぶとは意外な (笑)

S:あれなんかもカンツォーネなんだなあ。

D:それって勝さんのピアノがカンツォーネ風に弾きだしたらハマったという?

S:そうだね。あれがなかったら《悩み多き者よ》は無かったね。あと…『ルネッサンス』ってのがあったんだよ。オーパスにいた大友さんという人が過激になっていってルネッサンスという文化サークルみたいのを作るんだ。それで2〜3回ライヴをやったわけ。(あがた)森魚やなぎら(健壱)もいてさ、俺がそこで《悩み多き者よ》を歌ったら、それを早川義夫 * が見ていて声をかけてきた。いい曲だね、URCでやれる曲だと言うんだな。で、レコーディングに入るんだ。

D:な〜るほど。やっぱり早川義夫さんがディレクターとして皆を引き上げるわけですね。

S:そこでは、俺より早川義夫のことを大好きだったあがたがURCに蹴られるわけよ。あの頃はまだ《赤色エレジー》はできてなくて、結局ベルウッドになるわけだ。

D:そういう経緯でしたか。で、オーパスのなかには岡田徹さんや白井さんや…。

S:武川君ね。

D:ええ、武川さんもいましたよねえ。そのなかでは哲夫さんは出世頭ってのも変ですけど、まあもっとも早くデビューしたことになりますよね。

S:そうだね。1950年代生まれ組の中ではね。

D:ん? あ、そうですね…50年のお生まれでしたね。勝さんは斉藤さんのレコーディングから、やはり早川さんに呼ばれて岡林さんのバックへと…。

S:いいピアノ弾きがいるって俺が紹介したんだよ。その岡林バンドにはドラムとベースがいてさ…。それは…若林が連れてきたんだよ。若林って分かる? 武蔵野たんぽぽ団。

D:ええ、若林純夫さん…好きでした。

S:当時アマチュアとして、皆が烏合の衆かなあ…入り組んでいろいろやってたわけよ。ある時、共立(講堂)のステージだったかな…若林がドラムとベースを連れてきてさ、あいつは生ギターで…《ウェイト》をやるんだよ。

D:日本語でやっていたとか…聴いたことないんですが…。

S:あの日本語詞なあ、知りたいんだけど…亡くなっちゃったから分からないなあ。その《ウェイト》も、 バンド自体も…すごく良くてなあ。そうしたらそのベースとドラムが岡林に取られてさ (笑)、ピアノに勝が入って…岡林バンド、すごくいいバンドだったね。はっぴいえんどより良かったんじゃない? (笑)

D:そうですか。で、慶一さんとの付き合いとは…? URCからの2枚目のシングルは慶一さんの初レコーディングですよね?

S:そうそう。ただ時間差がもうよく分からないンだけどさ…、高石事務所主催で、ピート・シーガーを呼んで全国フォークキャラバンをやろうと…反戦フォークだよな、そんな企画があってそれを東京は都市センターホールでやったんだ。で、俺も高石事務所の秦さんから斉藤君も出なよと言われて行ったんだよな。そのコンサートで、俺は不安で袖で見てたんだ、演奏者を。上がっちゃうから。そうしたら横に酒瓶もって酔っ払った男がいるわけ。それがあがた森魚なんだ。 

D:あがたさんですか。

S:「君今日何やるの? 」と聞いたら《ハッティキャロルの寂しい死》* をやるというだな。凄い曲やるじゃんと思った…。そこから意気投合してさ。あいつの家にいったりして…。

D:あがたさんは北海道の出身ですよねえ? 当時は大学に入って東京でひとり暮らしで?

S:いや明治の学生だったけど…両親とも出てきてたよ、こっちでみんなで暮らしていたな。横浜の上大岡の一軒家に住んでいた。あがたは俺なんかよりよっぽどディランを聴いていたね。その頃…あいつは蒲田の野村證券の黒板書きのバイトをしていたんだ。奴の隣でやっぱり黒板書きしていたおばさんがいたんだけど、それが慶一のお母さんなんだよ。

D:ええ、その話は聞いたことがあります。

S:慶一のお母さんが、ウチの長男坊が…出不精でどっちかといえば引きこもりだと。その息子を家から引き出してくれないかとあがたに言ったらしいんだな。そうしたらウマが合ったんだな、当時の慶一は小さなメガネかけてロジャー・マッギンばりの格好をしているんだ、バーズが好きだったからね。…俺も会った、あがたから紹介されてね。それで…ライヴを何本かやった後だったか前だったか覚えてないけど…俺の2枚目(シングル)のレコーディングになったからピアノをやってもらおうかと。勝はちょっと忙しかったからね。当時慶一は The Band も好きでさ、《ウェイト》の♪ジャジャジャン〜ていうサビ前のフレーズ、あれが上手くて…いま考えると下手なんだけどさ (笑)、あの感じを出してくれと…そう伝えて、あとベースが…アマチュア、いやみんなアマチュアだけどさ (笑)、三人で録音したよ。

 <URCシングル《されど私の人生》_アルバム未収録。それにしても「The Band」というのはどれだけ影響与えたかねぇ… Tokyo 70's Rock! >

 

 

 

 

 

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