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D(以下 Denny):トシちゃんとの出会いは…やっぱりまずうちの兄キとが最初、…で鶴瀬のオレらのとこに来た? オレはそこら辺からだったはず。兄キとトシちゃんは…井の頭公園でギター弾いていたトシちゃんを見かけた兄キが話かけたんだよね?
H(以下 日倉士):俺さ、(日暮家)兄キが吉祥寺にひとりで住んでたから高校出てそこへ居候していたわけ。当時ジェームス・テイラーやニール・ヤングにぞっこんで、俺もあんな曲作って歌いたいって思っていてね、ヘタなオリジナル作っていた。でも六畳一間のアパートじゃ苦情くるから公園でやってたのよ。そこにカボの兄キが話しかけてきて…遠藤賢司ってのが凄いとかいろいろ吹き込んだんだよな (笑)。
D:吹き込むよねぇ (笑)。
H:見事にハマってさ、なんか…耳障りのいい音楽からアバンギャルドな世界に連れてかれた (笑)…? それでオリジナルでやっていたからデモテープを作りたいってことをちょろっと話したら、知り合いでヤマハに顔が利く奴がいるっていうんだよな。
D:兄キがそう言ったの?
H:そう。
D:誰それ?
H:それがモリジュン * でさ。モリジュンが詩を書いた《雨》だっけ? あれヤマハの大会だよな。
D:そうそう。
H:その関係で顔が利くって話で…。
D:マジで?
H:そうだよ、で俺、初めてのデモ録りを銀座のヤマハのスタジオで…丸1日使わせてもらったんだよ。
D:へぇ…。
H:そんなきっかけでモリジュンと知り合って。でね、モリジュンが〝ハウス〟に住まないかって話を持ってきたんだよ。
D:福生…柴田さんところだね。
H:そう。当時柴田君とホンダでバイクのデザインやっていた前田君という二人がハウスをシェアして住んでたんけど、そこは福生のハウスのなかでは高級バージョンでさ、将校クラスのためのハウスだったんだ…家賃高いってんで他に誰かいないかって話…。俺がその話に乗って兄キのアパート出て移ったんだよね。
D:あれ、高級だったの?
H:平屋だけどバスルームがふたつあって…ひとつが来客用だよね、ベッドルームも三人にひとつづつあって、それで20畳ぐらいの居間、それと楽器置き場…バンドの練習室があったからね。
D:そんなだったっけ?
H:「アメリカンヴィレッジ」って地区のハウスな。線路の向こうが長屋状態の…一般向けかね、「ジャパマヴィレッジ」だった…。
D:オレも何度か覗きにいきました。日曜、午後にあの広い居間でまったりしながらレコード聴かせてもらってた。【John Sebastian/ tarzana kid】【Crazy Horse/ loose】とか…。ほんとアメリカ気分だったよね… ♪ Groooovin'... sunday afternoon.. (笑)。
H:そのモリジュンと知り合ったことで、なんだかんだあってボブズ(フィッシュ・マーケット)までたどり着いたのかな。ベースの吉田がプリフライトってバンドやりながらボブズもやっていた…。ボブズを客として観ていて結構イケるバンドだと思ったんだよ。最初カフーツって名前だったんだ、〝モロ〟…だよな。
D:そうだったっけ?
H:ピアノとギターのメンツが抜けちゃってね…ボブズから。俺は当時自分のバンドを始めていたんだけど、誘われたからボブズへ入っちゃって…、バンドメンバーから非難を浴びたんだけど (笑)。
D:でもトシちゃんはどっちかといえばシンガーソングライター志向だったわけじゃない。ボブズへはギタリスト参加だよねぇ…そこらはオーケーだったわけ?
H:それはさぁ、まず「ギター」なんだよな。最初にジェームス・テイラーのあの…ピック使ったコード弾きじゃなく単純なアルペジョでもない、独特のグルーヴ。ベースラインがきっちり弾かれてて。これがやりてぇ〜と思ったんだ。その後にライ・クーダーを聴いてしまったらもっと凄いワケよ。スライドだけじゃなくて、アコギでピッキングしながら歌うじゃん…《Vigilante Man》とかさ。スライド…当時は〝ボトルネック・ギター〟って言ってた、それも入れてアコギで弾き語り。そこにすっぽりハマったんだ。ただこれをモノにするには恐ろしく時間がかかるなぁとも思ったんだよ。それでまず歌うのはひとまず置いておいて、ギターの腕を磨く気持ちになってさ、ボブズに誘われた時に。
D:なるほど、ボブズの音楽性ならばそういうギターも活かせると思ったわけね?
H:そうそう。
D:修業の手段としてはこのバンドのギター席も悪くないかも、と…。
H:うん。ただバンドでのスライドならばリードプレイでいいわけだからベースなんか鳴っている必要もないよな、単音でサスティーン利いた音で弾こうとなったところではライ・クーダーよりも…当時だから、デュアンやローウェル・ジョージがすごく参考になったね。
D:73、4年のことかねぇ。
H:いやもうちょっと後だな、俺ボブズへ入ったのは76年ごろじゃなかったかな。もしかしたら俺が入ったときには平田さん * に認められててビクターでやる(レコード制作)って決まっていたかもなぁ…。レコーディングは入って1年ぐらいで始まったと思うヨ。ただ、粕谷君の話にあったけど、ボブズはちょっと遅れてたってのは実際あったねぇ (笑)。
D:細野さんのティンパンアレイにしろ、時代はもうウェスタンシャツじゃなくなってきてたよね。ソウルっぽかったり…ソフィスティケイトされてきていた、全般に。パンクも来てたし、音楽地図はがらっと変わった頃だよね。
H:そう。もうネクタイして歌うみたいな時代だった。ボブズはレコードだして1〜2年のうちに解散してるんだけど、その頃は俺自身がトーキング・ヘッズ入れ込みだったから (笑)。
D:一応はレーベルメイトになるかねぇ…ビクターでいうとサザン(オールスターズ)が出てきて大ブレークだった頃だよね。サザンだって〝いとしのフィート〟なバンドだったんだろうけど、やっていたことはアメリカンロックなんか突き抜けて日本語オリジナル、独自のバンドカラーでど〜んと来たからね。
H:そうなんだよなあ。ボブズがさ、レコーディングのためのリハーサルを練馬のユーフォニックでやっていたときに粕谷が「今度インビテーション * でこんなバンドやるんですよ…」ってサザンのデモテープ持ってきてさ、聴かされたのを覚えてるヨ (笑)。なんだか「お笑い」みたいだなあなんて思っていたら…すぐだった、『夜のヒットスタジオ』かなんかに出てきたのが。あれよあれよって間にトップバンドになったもんなあ (笑)。
D:ちょうどあの頃のことだったね。ただね、思うんだけど…いわゆるアメリカンロック派というのかなぁ、…そうだ、ウェスタンシャツ&ブーツ派ね (笑)、その代表格として「夕焼け(楽団)」、久保田麻琴という人がいたわけじゃない。世の中/音楽に変化の兆しは見えてきたけれど、マコっちゃんに…ついて行くってことでもないけど、同じ路線で行ってそこそこいけるんじゃないかって気持ちは…あったでしょう?
H:あった、あったよね (笑)。だから本気でアルバム作ったんだし。それに何年かかけてあの形ってのを作ってきたバンドだからね、世の変化に合わせてなんて器用なことができる連中でもなかったしな、本気でやっていけば何とかなるとも思っていた…よね。
D:オレも…いやオレは演奏していたミュージシャンじゃなくて聴いていた側だけど、たしかに刺激的な音やバンドが出てきてハマったところもあるけれどそれでもウェスタンシャツは捨てなかったし (笑)…多少しぼんでいってもアメリカンロック支持層は残ると思っていたし…。
H:でもさ、あそこでそれがきれ〜いに消えた (笑)…サンセッツとかに行っちゃうところがほんとに、今思うと〝日本〟だったよね (笑)。じつに日本的だったじゃない。
D:でしたなぁ (笑)。機を見るに敏であってこそミュージシャン? やっぱりどこか欧米カルチャーの借り物…だったとも言えたかねぇ。ライ・クーダーはずっと一緒、変わらないままでしょ。日本でも小唄とか民謡とかの人たちはブレないもんね。
H:「あいつまだ髪の毛伸ばしてるよ…」みたいになった (笑)。
D:まだウェスタンブーツ履いてるゾって (笑)。
H:それで思い出したけどさ…ライ・クーダーが日本でカーステレオのCMに起用されたんだよ、『ロンサム・カーボーイ』っていう…。
D:あったねえ。
H:そこで、ハワイアンシャツを着てウェスタンブーツを履いてくれって言われたんだって。
D:日本側…制作サイドからってことね?
H:そうそう。それって夕焼け楽団…なんだよな。マコっちゃんヨーちゃんの格好。でもライ・クーダーにしたら「何なんだよ、この格好は? 」…だったらしい (笑)。そんなことを聞いた覚えがあるヨ。
D:上と下と全然関係ない (笑)。単純に日本での流行りだったんだよなあ。オレなんか背は無し足短い…それでFLYEだTony Rama * だってウェスタンブーツ履いてたんだから、大笑いですヨ。
H:ただね、ここまでしがみついて(音楽を)やってきたのは…70年代の音楽って間違いなかったというか…、ロックがロックとして意味を持っていた…。
D:マインドとしてちゃんとあった時代だよね。
H:そうそう。
D:いまは形態がロックっぽくても一線で活躍ってのはほぼショービジネス…裏で金勘定してる人間が透けてみえるもんなあ。
H:ロックってマインドの音楽だと信じていたし、生き方を左右されたもんなあ。それでなけりゃ今になってもこんなことやってないよ (笑)。ある意味ロックは70年代後半にピークまで行ったかもしれないよね、だから以後は同じこともやれないし大きく変化したのかも…。俺の最初のソロ(CD)の時にね、この時代に〝ギターソロ〟がある音楽ってどうよ? ってのも正直あったよ (笑)。でも、歌ヘタだし、それまでやってきたことだから…スライドのソロはかなり弾いたんだけどさ。結局今になって思うんだけど、真新しいことをやったつもりの80年代の音楽が今ではすごく古いモンと思えるんだよな、逆に70年代の音楽は今でも十分聴けるのは…モチベーションやエモーションがストレートに出ていたからだと思うよね。
D:作り物感が無いというかね。そこでオレは一番思うところはやっぱりスタジオミュージシャン…スタジオワークのピークが、機材・録音技術含めてだけどロック・レコードのピークが70年代だったということね。これ、いつも喋ってることだけど (笑)。プロの中のプロが最高のセッションで最高のグルーヴを…ソウルやR&Bだけじゃなくてシンガーソングライターのレコでもね、聴かせてくれたワケだから。よくこんなことができたなと聴き返して驚くぐらいだよね。
H:あの当時よりも今のほうがその凄さが再確認されてるんじゃないかな。スタジオ・ミュージシャンて言葉…、俺がその言葉を知った時のスタジオ・ミュージシャンてのはそういうクオリティの高い人たちだったんだよ。なんかさぁ素浪人みたいな印象で (笑)…ギター1本で渡り歩くってカッコいいよなあと思ったヨ。でさ、ボブズが解散して…「ホイ、次のバンド!」ってこともなかったしシンガーでもなかったから、俺もスタジオ・ミュージシャンになりてぇ…なんて思ったわけよ。それで知り合いのコネ頼りになんぼか仕事をもらったりしたんだわ。でもさ、それって俺が思い描いていたスタジオ・ミュージシャンとは対極の世界…だったなあ。腕の利く順のランクってのはあったんだろうけど俺に振られた仕事は、まあほとんど誰でもいいっていうか…渡された譜面どおりに間違えなく時間できっちり弾けばそれだけでOKってヤツさ。日倉士ってヤツのギタープレイがここに欲しいからというオファーじゃないんだよな。それでもこっちは必死じゃん…間違えないように冷や汗かきながら弾いてるワケよ。フレーズに情感込めるなんてほど遠くて、音楽やってる気持ちすらなかったんだ。俺こんなことやってたらすぐに胃に穴が開くなと思った。俺の思うようなセッションワークがしたかったらまず自分のカラーを確立した事で世間に認められない限りありえないと気付いたワケだよな。
D:…てことで、ソロ活動にシフトしていった…?
H:そうだね。原点帰って、バンドでのギターじゃなくて弾き語るスタイルね。
D:うんうん、なるほど。ただね、思えばその最高な70年代にしてもオレらが聴いていない盤…アメリカにおいてもどうでもいい、たいしたことないセッションで作られた盤てのは山ほどあったんだよね。「このデヴィッドTのソロは最高だよな」とか「やっぱコーネル・デュプリのカッティングが違うヨ」なんていいながら聴いていた盤てのは山と積まれたレコードのてっぺんのところだったでしょ。彼らはセッション界のエリートでさ、いわゆる first-call musician だよね、いの一番に電話がかかってくる人たち…。そこでつながらなければセカンド、サード、フォースに… (笑)。十把一絡げ組が底辺にいて成り立つ業界だったろうなあ。
H:変なたとえだけどあの当時に、細野さんに呼ばれて思うように弾いてくれなんてことがあったら全然違ったんだろうけど…細野さんが俺に声かけてくれるはずもないし… (笑)。
D:それだけの実績と実力の問題だろうけど、やっぱりトシちゃんならギターで、オレはデザインかな…あんただから頼むよっていうご指名で仕事がやりたいよねえ、願わくば (笑)。
H:ずっとびくびくしながら弾いていくレベルでやっていくのは無理だなと思ってある意味開き直りかなぁ…器用じゃないからひとつところで極めるっていうか、ここやらしたらコイツだよなってモンを目指そうと…。
D:それは〝スライド〟ってことで特化していこうと…?
H:そういうことだよな。というか、人と比べてまぁいい線いってるのはスライドか? …という思い込み? (笑) それでもスライドギターでスタジオ仕事をばりばりこなすなんて気はなくて…だいたいそれほど需要がないし。まあそんなことないんだけど、もしもあの頃スタジオ仕事で変に食えちゃっていたら、ここまで音楽続けていられなかったかもなって気もすんだよね、今になってみると…。
D:そうかもね。
H:でも一人でやるっていっても思うようにはできなくてさ、ここまで来るのにえらく時間はかかったよ。飯食えないしバンドもないからずっとバイト人生だったよなぁ。バイトしながら時間作って練習して…思えば自分でもよくやったと思ってんだ、それがあったからまあこうして細々とだけれど音楽にしがみついてこれたかなと…。
D:トシちゃんのことを兄キと話していていつも言うんだけどさ、オレらの仲間うちで一番ミュージシャン然としているのってトシちゃんだからさ…やっぱりエライよなって (笑)。
H:そう話すときに兄キがどんな顔しながらかって想像すると笑っちゃうけどな (笑)。
D:いやいや、マジですよ。てか、ジョークっぽく言ってるけどさ (笑)…本心は羨ましいんだよね。みんなず〜っとギターやベース持っていたかったんだから。
H:まあやってますよ…ドライバー兼ミュージシャン兼… (笑)。
D:six days on the road... (笑)。
H:…60になって、こんなやり方があと何年続けられるかなと思う…しみじみね。
D:還暦かあ。
H:若い奴らがさ、アメリカ行って何とかってブルースマン観ましたけど75才で踊りながら歌うンですよ〜バリバリっすよ〜とか…俺を励まそうとすんだけどねぇ (笑)。たしかにブルースの世界じゃ60なんて中堅でさ、50じゃ青二才だろうしなぁ。そういう考え方もあるとは思いつつ…衰えは確実に来てるから (笑)。
BBキングは80過ぎて年間200本(ライヴ)こなしているって聞いたことあってさ、オレも数えたんだよ。大体平均で150本だった。でね、4〜5年前だけど年間200ってのはどんなもんかと思ってマジで試した。結局200本以上やったんだけど…自分で運転しながら月に25本とか地方回ってるとさ、その前後で家戻っても練習やら仕込みもあるわけだし、他のこと…曲作るとかあらたな奏法にチャレンジするなんてまったく出来なかったな。1年丸々バタバタしたままの感じだった… (笑)。